~3月11日 震災当日~
それは突然やってきました。
いや、全く前触れがなかったわけではありません。
“それ”がやってくる2日前、前兆はあったのです。
でもその時はまだこんなことになるとは思っていませんでした。
平成23年(2011年)3月11日14時46分、
三陸沖を中心とした太平洋の広い地域を震源とする、M9.0の地震が発生しました。
発生当時はこれほどの規模とは分からず、
震源は三陸沖、規模はM7.9と発表されていたようです。
私は宮城県沖地震も経験しています。
その時はまだ高校2年生で、ちょうど1学期の中間テストの頃でした。
当時はまだ民家のブロック塀の強度が弱く、
確か40数名の犠牲者を出したと記憶しています。
その時と比べても今回の揺れは大きく、そして何よりも長く続きました。
私は客先に常駐して仕事をしている最中で、あまりにも長く続く揺れに、
パニックから過呼吸症候群を起こした人もいたほどでした。
5分程度揺れていたでしょうか、揺れが収まり、ようやくビルの外の空き地に避難しました。
宮城県沖地震当時と違ったのは、携帯電話の普及と進歩もそうでした。
私も含め、空き地に避難した多くの人が、携帯電話のワンセグTVで速報を観ました。
そこには被災した多くの生々しい光景が映っていました。
午後3時になり、帰宅許可(命令)が出ました。
当然、交通機関はマヒしていましたので、歩いて帰ることにしました。
もちろん、停電で信号機も観戦の一部を除いて消えています。
幸いなことに、常駐先は自宅から歩いて1時間位の距離でしたし、
過去に歩いたこともあるので、苦労することなく帰宅することができました。
ただ、途中のビルのいくつかでは窓ガラスが割れて落ちており、
近寄らないように気をつけて帰りました。
何とか自宅マンションにたどり着くと、炎と煙が見えました。
近所のマンションの一室から出火しています。
幸いなことにケガ人もなかったようですが、
その部屋はいまもベランダにブルーシートが掛けてあり、壁面は黒くすすがついています。
マンションのエレベーターは停電で止まっているので階段を上ると、
あちこちに発泡スチロールを細かくしたような白い粉が。
おそらく断熱材か何かでしょう。
そして共有部分の天井が割れていたり、
建物の接合部のコンクリートが一部崩れていたり、
また廊下に面した壁面のレンガが崩れていたり、と被害は少なからずありました。
ちなみに、5月になっても一切修理は行なわれていません。
一階の入り口付近に「このマンションは使用できる」という検査結果を表すA4一枚の張り紙を除いて。
自分の部屋に到着。
恐るべき光景です。
多くのものが散乱しています。
ただ幸いなことに、割れたものはほとんどありませんでした。
積み重ねていたCDのケースが壊れたくらいで。
さて、まずしないといけないことは…。
実家に電話してみます。
通じません。すでに電話は通じなくなっていました。
まずは両親の安否を確認しないと。
実家は同じ市内、車で30分ほどのところにあります。
そこで車に乗ろうと駐車場に向かうと、なんと雪が降ってきました。
地震で被害を受けた上での雪、気温も下がります。
電気もガスも止まり、暖房すら確保できない状況でのこの雪は、
なんと情け知らずなんでしょう。
地震直後で帰宅するのでしょう、車が多く、
停電で信号が消えていることもあって、どこもすごい渋滞です。
そして渋滞で止まっている間にも余震は繰り返し襲ってきます。
車のテレビをつけてみて、海沿いの地域を津波が襲っている映像が目に入ります。
空港が、アウトレットが、見慣れた風景がテレビに映っています。
でもその光景は、見たこともない、まさに地獄絵図でした。
海から何キロも離れているところに水が押し寄せています。
車が、飛行機が、津波によって流されています。
いままで海外の地震や津波の映像で見たことはありましたが、
日本で、しかも日頃見慣れた自分の住む街の近くで起きている現実に、
しばらくの間、これを事実として受け止めることができませんでした。
実家についた時には、自宅を出て3時間近くが経っていました。
玄関をノックします。
何度ノックしても反応がありません。
いやな予感がします。
近くの避難所となっている小学校に行ってみました。
多くの方たちが、着の身着のままで肩を寄せ合っています。
目を凝らしてその間を歩き回り、両親を探しましたが、見つかりません。
両親は耳が少し遠いので、もしかしたら家にいるけど気づかないだけなのかもしれない、
そう思って、もう一度実家に向かいます。
そして持っていた懐中電灯で窓から中を照らしたり、何度も玄関をノックしました。
そうしていると…
父親が気づいて出て来ました。
母も元気です。
聞けば歩くのにもひどく、また家の中の被害も大したことがなかったので、
布団にくるまって家にいたとのこと。
また反射式の石油ストーブがあるので、暖房も問題ないとのことでした。
よかった。
しばらく話をして、自宅に戻ることにしました。
夜も更けてきたせいか、道も先ほどよりは混んでいません。
1時間ほどで帰宅することができました。
もちろん、電気はついていません。
エレベーターも止まっているので、真っ暗な中、階段を登って自宅のあるフロアまで登ります。
家の中も真っ暗です。
とりあえず逃げ道を確保して、万が一の余震に備えてリビングで休むことにしました。
我が家はファンヒーターなので、電気がないと灯油があっても暖を取ることができません。
そういえば常駐して仕事をさせていただいている先の別会社の方が
「地震の時は電気が止まるから反射式の石油ストーブがいい」と言っていました。
まさにその通りでした。
寒いので布団と毛布を重ねて休みます。
この時点では水道が使えたので、水の心配をせずに休みました。
その状態が長くは続かないことに気づかないまま…。
今日の言葉:「明けない夜はない」
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